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2011年3月22日 (火)

仙台での3日間-2(市街地)

Img_0901
僕が育った街からは、泉ヶ岳という山が見えます。
雪がある季節は、このくらい暗くなってくるとスキー場の照明でかなり明るいのですが、
やはり今は人の気配が感じられません。
だけど、地震があったって、凛々しい姿は変わらないのです。
できるだけ早く、みんながこの山を心から楽しめるときが再びくることを祈ってます。

前日に書いたように、2日目は津波の被害にあった
僕の子どものころからのなじみの場所を確認しに行きました。
これによって、変わってしまったものはもう元には戻らない、
こうなったら、あとは未来を見るしかないと、
自分の気持ちに踏ん切りをつけられたように思います。

その他の日は基本的に実家におり、
あとは少しだけ街のなかの様子を見に行く程度でした。
じつは誤解をもたれていないかと心配しているのですが、
僕は今回、けっしてテレビなどで放映されているような
災害救援活動のために仙台入りしたわけではなく、
あくまでも被災地に家族と親戚をもつ人間として、
まずは実家で必要としている物資を運び、親に顔を見せて安心してもらい、
そして親戚や友人などの安否を確認するのが目的でした。
とくべつセンセーショナルな写真や話は期待しないでください。

さて、ここから下の数カットは、僕の実家がある南光台という
仙台市内のなかではけっこう古い住宅地の様子です。
地震から1週間以上経っていたこともあり、
それなりに普段の生活が戻りつつあります。

この部分、自宅周囲の様子を知りたがっている
小中学校の仲間に向けたご報告の意味合いがあるので、
あまり興味がない人は、飛ばしてもらってもかまいません。
Img_0726
屋根の破損部分を直している家。
南光台の被害は比較的軽微で、このような家はそれほどありませんが、
家の壁やブロック塀が崩れている家はかなり多かったです。

母校の南光台東中学校の体育館を覗くと、仮設トイレを作る準備をしていました。
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中学生のときはバスケット部だったので、
いつもこの体育館で運動していましたが、仮設トイレを置く日がくるとは。
だけど、避難所には使われていないということは、
周囲の家々にあまりダメージがなかったということで、少しはほっとします。

遠くの街からもプラモデルを買いにくる少年が多いことで有名な NODA-YA。
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僕が自動車のプラモデルを買いに行っていた店舗を
新しく建て直しているはずなのに、無残なありさまになっていました。
苦しい状況でも、人間には絶対に息抜きが必要。
近隣の模型好きのために、早く復活できるといいのですが。

この写真を撮った前々日に、多くの家では水道がなんとか復旧し、
いまやそれほど多くの人が並んでいるわけではありません。
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「黄桜」と書かれている車両は、京都ナンバー。
遠いところからありがとうございます。
並んでいる人は、「酒をもらってるみたいだね」と話していました。

さすが東北だけあって、親戚に農家がいる人などは、
精米前の米を持っており、籾殻をこんなコイン精米所で落とします。
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だけど、こんな米どころだというのに、店頭で米は品薄です。

こちらは隣の鶴ヶ谷という住宅地の公園。
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地震で使えなくなった家電や家具や山のように積まれています。
全体の量は、この数倍どころではなく、10倍以上はあるでしょう。
必要なものを買いなおすだけでも、相当な出費が予想され、気の毒になります。
こういったゴミといい、海岸のガレキといい、
これからの処分方法も難しそうです。

というのが、僕の実家から半径1キロ程度の様子。
仙台市の住宅地は、おそらくどこもこの程度で、
甚大な被害はなんとか避けられたようです。
それでも家が全壊したりして、亡くなった方は何人もいらっしゃいます。

ところで、市内を歩いていると、目に付くのが、このような看板。
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仙台市は以前から大地震が発生することを見越していて、
さまざまな対策を重ねている最中でした。
これらの看板の工期を見ればわかるように、
橋も下水管もまだ工事中にもかかわらず、
あの巨大地震でも大きな問題は発生せず、
自分の故郷ながら、大したものだと思います。
だけど、今後は、津波への対策も考えなければならないでしょう。

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繁華街にあるモンベルの店舗。
ここにアウトドア義援隊の本部があるはずでしたが、すでに山形に移動した後でした。
いずれにせよ、東北のために活動していただき、頭が下がります。

青葉城(仙台城)址の壁は崩れていました。
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青葉城「址」というだけあって、仙台には城は現存せず、
あるのは「址」、つまり城跡のみです。
城は戦争中にアメリカ軍の仙台空襲で焼かれました。
それがこの地震では、仙台湾にアメリカ軍の空母が到着し、
「operation TOMODACHI」なんていう作戦名で救助活動を行ってくれています。
非難も浴びがちなアメリカ軍ですが、敵よりも友達のほうがよいに決まっています。
アメリカにかぎらず、誰とでも、どんな国とでも。
戦争は永遠に行わず、助け合いだけでつきあえる世界になってほしいものです。

桜の名所である西公園から、広瀬川を挟み、
対岸には僕が通っていた仙台二高の講堂と体育館が最上段に。
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授業をさぼったときは、この河原で石を投げたりして、時間をつぶしました。
仙台市民が愛する穏やかな清流なのですが、
この川が合流する名取川の河口を津波が襲い、たくさんの命が失われました。

高校の正門。何十年も前から、この時期になると
必ず登場する「定期戦」の看板が、今年も置かれていました。
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「杜の都の早慶戦」などといって
大昔から仙台の名物になっている一戦で、
前日には両校の生徒が集団になって繁華街を練り歩きます。
私服の高校なのに、このときだけはガクランを着て。

僕はこの看板の「日付け」が大地震のなか、
どのようになっているか、非常に気になっていました。
定期戦の当日まで、看板の数字を1日ずつ減らしていくのですが‥‥
見たところ、「あと54日」。
どうも今年は5月11日に定期戦が行われるようなので、ぴったりの勘定です。

震災に負けず、今年も行おうという強い意思が感じられます。
とはいえ、津波に巻き込まれた地域の生徒もこの学校には通っているはずで、
もしかしたら亡くなっている可能性すらあり、結局、中止になるのかもしれません。
右のほうの小さな張り紙には「登校困難の生徒は、自宅待機」とも書いてあります。
だけど休校のなか、それでも生徒が誰か毎日わざわざ学校に来て
この数字を減らしていっているのだと思うと、卒業生としては胸が熱くなるんです。
早く地震から立ち直って、いつもの生活に戻ってほしいと思います。

さて、東京に戻るバスターミナル。
新宿行きのバスは完全に満席です。
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今回は奇跡的にとれたチケットで仙台に往復でき、
そのチケットによって滞在日数も決まりました。
もう少し残ることができたら、なにかできたかもしれません。
やはり現在の問題は、交通手段なのです。
Img_0926
これは帰りのバスのなかから見たガソリンスタンド。
写真には撮ることができませんでしたが、最後尾がどこにあるのかわからないほど、
クルマは長蛇の列になっており、ガソリン不足はまったく解消されていません。
東北でいちばんの大都市の仙台でもこの有様なのですから、
食料や医薬品などの援助品を運ぶトラックも
被災地に入ることはなんとかできたとしても、
戻るだけのガソリンを得られず、簡単には東北まで往復することができません。
援助活動を行おうとしている有志の方々も同様。
なにしろ、仙台の僕の実家でも、わずか5分程度のクルマの使用も
控えるようにしているほど、ガソリンがないのですから。
もともと被災状況が苛烈ではなく、食料なども入り始めた仙台から、
ひどく苦しんでいる海沿いの小さな町まで助けに行くこともできません。
警察のクルマですら行動が限られつつあるのが、現在の東北の太平洋側なのです。

僕が知っているだけでも、何人もの人が被災地に入り、
ボランティアで活動しています。
しかし、しっかり活躍している人だけとはいえず、
ただたんに現地の人たちの食料やガソリンを減らし、
避難したい人の代わりにクルマの座席を占め、足手まといとはいわないまでも、
もうちょっと考えてから動いてほしいと思われる人もいないわけではありません。
阪神淡路大震災のときとは違い、被災地があまりに広範囲で、
しかもアプローチへの燃料や距離などの問題がいくつもあるのが、
今回の大地震の特徴です。
なにも現地での直接的な支援でなくてもよいと思うのです。
遠くからの間接的な支援でかまわないので、
長期的な視野で援助を続けることが大切なのではないでしょうか。

今回、自分の目で故郷の様子を見て感じたことは、
早いうちに簡潔にまとめてみるつもりです。

ともあれ、僕は東京に戻ってきました。
明日からは自分の仕事を再開しつつ、この地震について引き続き考え、
こちらでできることを行おうと思っています。

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コメント

泉ヶ岳、きれいですね。。。
私も仙台には旅行したことがあります。
街中は大丈夫そうで安心しました。
頑張れ、東北!

投稿: サヤ | 2011年3月23日 (水) 22時23分

御家族に会って安心されたんじゃないですか?無事と分かっても、やっぱり顔を見るまでは、ホッとできないですよね。
御家族も庄太郎さんの顔を見て、安心したんじゃないですか?
子供であり親になって、気持ちが理解できるからハグできるんですよね。
庄太郎さんの文面や写真を見ると、じわーっと…溢れてきます。荒れた風景、看板の日付、山…
今週に入って気持ちも少し落ち着き笑顔も出るようになりました。
でも、日中、フッと思い出すと泣きそうになるのを我慢してる自分がいます。
私の故郷は変わりないのに、もしも…という思いからなのか、
上手く説明できませんが、私でもこんななのに、
被災地の方々の目には、あの光景が未だに広がっている…そう思うと胸が詰まります。

でも泣いてばかりいられないですよね。私達が頑張らなければ、皆さんを日本を救えないんです。

泣きながら歩こう
泣きながら笑おう
泣きながら歌おう

いつか
悲しみの涙が
幸せの涙になるまで

投稿: aiko | 2011年3月24日 (木) 00時01分

始めてお便りします。
山雑誌を読んでいると 高橋庄太郎さんをよくお見掛けしてまして ノ-スフェイスのカタログで 仙台市出身と知り、どうされているのだろうと気になって、検索…ライタ-の方だし忙しいからさすがにブログはないかぁ-と 思っていたのですが、直ぐに見つかり さっそく読ませて頂きました。
TVやラジオよりも 仙台 宮城を身近に感じられました。
私の職場仲間の兄弟家族が仙台市だったり、親戚が宮城だったり、 いつもの美容師さんが仙台出身だったり とにかく たくさん人ごとではない人がいるので 言葉が見つかりません。
私はなにも出来ませんが、僅かですが義援金を一度で無く 復興するには時間が掛かるハズですから 毎月送ろうと考えています。
福島の問題もあります
地震も続いています
いつになったら 楽しくハイキングに行けるでしょうか…。

今年 尾瀬に行きたかったのですが…時間があるので 様子をみますが 放射線は自然にどんな影響が考えられるのでしょか…。

長くなってスイマセン
またブログ読ませて頂きます。
お仕事であちこち行かれるようですが、くれぐれも お気をつけて。

投稿: タテノ | 2011年3月24日 (木) 22時27分

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