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2011年3月21日 (月)

仙台での3日間-1(海辺付近)

往復の日程を除くと、仙台にいるのは3日間。
実家で手伝うことはもはやそれほどなかったので、できるだけ外へ出てみました。
自分が育った場所の現状を、目に焼き付けておかねばならないような気がして。

これを書いている今は、現状確認がすんで、気持ちの整理がつき、
感情的にはなりたくない心境。
あまりひどい写真は使わず、文章も落ちつき気味でいくことにします。

では、時系列は狂いますが、はじめに2日目から。
この日は、意を決して、津波に襲われた場所へ向かいました。

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家で借りた自転車に乗り、子供のころ海まで釣りに行くときの道を使って、
七北田川沿いに下っていきます。
この川は、僕の「3大河川」のひとつで、コイ、ウグイ、クチボソ、
初めて釣ったのは、すべてこの川。初のモクズガニを捕ったのもここでした。
ちなみに、あとの2つの「3大河川」は、父の育った北上川、
高校のそばを流れていた広瀬川。広瀬川の下流は名取川であり、
この3つの川の河口は、すべて津波でやられてしまいました。
だけど、これらは、僕がこれまでにカヤックで下った四万十川や釧路川、
カナダのユーコン川などの名川にも負けない、僕には大事な川なんです。

河口から8キロほど上流の岩切付近。
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ここまで津波が押し寄せてきた痕跡があり、川の真ん中に家が浮いています。
河口から流されてきたとは思えないほど上流なので、
おそらく川べりにあった建物が流出したのでしょう。

さらに進んでいくと、七北田側右岸の蒲生地区。
ここから数百人の遺体が発見されていという荒浜へ向かって行きました。
このあたりは、僕のいろいろな思い出がある場所です。
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水田があったはずの場所が、見渡す限り、すべて茶色い水と土砂で覆われています。

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遺体を捜索している消防署のみなさん。
長い棒を水中差し込み、深い場所を避けながら丹念に見て回っていました。

家を出て1時間半、やっと海が見える場所に。
だけど、道が崩れていて、これ以上は近づけません。
Img_0789
このあたりはサーフィンも盛んでただでさえ波が大きい場所だったという
記憶があるのですが、まさか10m近い津波が襲ってくるとは。
この写真の目の前の足元には、泥だらけのサーフボードが転がっていたのですが、
あまりにも生々しくて写真を撮る気が起きませんでした。

頭上をひっきりなしに通り過ぎるヘリコプター。
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このすぐ近くには仙台港、さらに先には多賀城の自衛隊駐屯地があり、
そこへ向かっているようでした。どちらも津波の被害にあった場所ですが、
復興と救助のために、なんとか再び機能させ始めている様子です。

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墓地の上に、何台ものクルマが流されていました。

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建物は流されていないものの、内部は完全に破壊されたセブンイレブン。
少年たちが、ガレキを掘り起こし、残されたものを物色していました。

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流されているもののなかでは、なぜかぬいぐるみやサッカーボールが目立ちます。

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細いものはもちろん、一抱えほどもある松の木が海から陸に向けて横倒し。
今回の地震による津波により、青森から千葉まで、
このような木が何十万本も倒されたのでしょう。
防砂、防風、防潮を兼ねて、数百年かけて育ててきたものが。

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海はこのすぐ先。だけど、貞山堀にかかるコンクリートの橋は分断され、
先には進めません。聞こえるのは、波の音だけ。
その音は、いつもとあまり変わらない気がします。
このあたりで、よくハゼ釣りをした気がするのですが、
風景があまりに変わりすぎていて、よくわかりません。

このあたりで、仙台出身の何人かの友人と電話で話しました。
誰もが「オレの代わりに、ちゃんと見ておいてくれよ」と。

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僕の今の心境だと、ここでお見せできるのは、これくらいが限度。
もっとめちゃくちゃになったクルマや家が、そこらじゅうに広がっています。
おそらく、その影にはまだ遺体が眠っているのでしょう。
道路に段差がある場所では、その衝撃で自転車のベルが勝手に鳴り、
「チーン」という音が、まるで仏壇の御鈴のようで気が滅入ります。

こうしているうちに、僕は自転車のタイヤをパンクさせました。
ガレキばかりの場所なので、ものすごく注意していたのに。
ガソリンがないときの貴重な足を傷めてしまい、
実家の家族に申し訳ない気持ちでいっぱいになります。
仕方なく、トボトボと10数キロ歩いて、家に帰ることにしました。
このパンクによって、すぐ近くにある仙台港、塩釜、多賀城には行けませんでした。
その付近に住んでいた友人の家だけでも確認したかったのですが。

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津波の影響がなかった場所まで戻り、幹線道路に沿って歩いていきます。

国道沿いの店は、ほとんど休業中。
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しかし、ときどき行列が見られました。例えば、この「餃子の王将」では、
お店の方が、「無料でふるまっています、いかがですか~」と、
自転車をひいて歩いていた僕にも声をかけてくれました。
被災された方に申し訳なくてご遠慮しましたが、
こういう光景はいたるところで見られて、なんだかうれしくなりました。
日本では困ったときにこそ、人間のよい部分が発揮されるんですね。

明日は東京に戻ります。
残りは、それから。

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コメント


餃子の王将の写真を見て、
日本はまだまだ捨てたもんじゃないなって思いました。

故郷の被災を見る事は辛かっただろうと思います。

それ以上に被災者はもっともっと辛いと思うけど、
残された人達、恩恵を受けた人達、そして東北を支援して下さる方々と協力して元の海に早く戻したいですね。

今日より明日、明日より明後日。
子育てと同じように無駄な事はないんだと思いながら自分に出来る事を少しずつやっていきます。

まだまだ映画の中で起こった事の様な…

写真から目をそらしてしまう自分がいます。

投稿: mon | 2011年3月22日 (火) 11時43分

いつも拝見しています。はじめてのコメントになります。
私のまわりを見ていると、今回の大地震が自分にとって身近な土地なのか、あまり身近ではない土地なのかで、感情や行動も変わっているようです。
高橋さんは御実家があるのですから、きっと単純に怖いとか、心配とか、そういう気持ちではないのでしょうね。
まずは気持ちを整理してからですね。ライターさんとしての高橋さんの行動を期待しています。いつのもような山の記事でも日本の人たちを元気付けてください。

投稿: totoe | 2011年3月23日 (水) 02時09分

南光台民です。
中学校の体育館は決して、避難所として利用出来ない程、
1週間後だと損害が激しく、使用禁止になっていたはずです。

現在も校舎 体育館ともに使用出来ない状態です。

投稿: KATE | 2011年5月21日 (土) 15時24分

KATEさま

いただいたコメントによると、「仙台での3日間」の「2」のほうで書いた、次の文がなにか誤解を与えたのでしょうか?

「母校の南光台東中学校の体育館を覗くと、仮設トイレを作る準備をしていました。中学生のときはバスケット部だったので、いつもこの体育館で運動していましたが、仮設トイレを置く日がくるとは。だけど、避難所には使われていないということは、周囲の家々にあまりダメージがなかったということで、少しはほっとします。」

これを読むと、たしかに仮設トイレを体育館に設置するようにも読めますね。僕は、あのダンボール箱に入った組み立て前の仮設トイレを見て、ただどこかに(体育館の外とか、他の公共施設の外とか)に設置するために、一時的に体育館に置いてあったというつもりで書いていました。他の場所では室内に仮設トイレを置いている場所はほとんどなく、文には書かないまでも、当然外に設置するというイメージだったので。また、当時は地震直後の情報不足で、校舎の損傷のために避難所として使うことができなかったとは知りませんでした。避難したい人がいる、いないに関わらず、避難所として使いようがなかったんですね。あの中学校の付近は昔は山で(よく探検に行ってました)、湿地も多かった場所をならして作った学校なので、地盤が悪かったのかもしれません。ともあれ、文がわかりにくくてすみませんでした。

投稿: 庄太郎 | 2011年5月21日 (土) 16時09分

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