他(そのほか)

2013年3月11日 (月)

2年後の3月11日

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本日、東急線のホームで14時46分を迎え、アナウンスとともに黙祷。
そのためにわざわざ電車を停止させていたのが印象的でした。

定時運行が基本の電車だから仕方ないとはいえ、黙祷の時間は短く、
終了後、僕は「本当はこのあと、まだまだ揺れは続いていたんだよな」
なんてことを考えていました。そして、そのあとに津波が来たのだと。

当時の写真を見直していると、やはり今でも涙ぐんでしまいます。
上の写真は大地震から1週間後の仙台の海岸付近ですが、
あのときの尋常じゃないヘリコプターの飛び方と、その数のことを思い出し、
僕の故郷はどうなっちゃうんだろうと、絶望的になりました。
同様に当時の僕のブログを見ると、そのときの自分の気持ちがよくわかり、
ブログって、まさにウェブ上に残るログなんだな、とも思ったりして。

あのとき、食糧を届けに戻った実家から街の様子を見ようと歩き出したとき、
いつものようにどっしりと横たわっていた泉ヶ岳は、僕に力を与えてくれました。

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やっぱり山は強いよなあ。
ちなみにこの写真を撮ったのは、八乙女中学校の前から。
マンチェスターユナイテッドの香川真司選手が通っていた学校です。
こういう小ネタもあのころは書く気がしなかったけれど。
しかし、いまや世界的選手になった香川さんも、
こういう泉ヶ岳の姿を覚えていてくれるといいなあ。

八乙女中学校は僕の出身校ではありませんが、
こちらは実際に僕の母校である仙台二高の講堂。
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そういえばこのとき、自分が通っていた小、中、高校のすべてを見に行きました。
こういうときって、自分のルーツみたいなものを確認したくなるんでしょうね。
まだまだ復興が進んでいるとはいえないけれど、
東北のみなさん、頑張り続けていきましょう。

 

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2011年5月16日 (月)

宮城の被災地・石巻/女川/東松島/山元、そして仙台

5月の連休はじめに「蔵王連峰~雁戸山~笹谷峠」と歩いた後、
連休の後半から僕たちは、全員、宮城県の被災地に入りました。
以下の写真は、そのなかのいくつかの場所です。

まずは、全国からたくさんのボランティアが入っていた石巻。
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門脇小学校の付近は、かなり片づけが進められていました。
4月に行ってきたときの写真と比べると、少しは重い気持ちが薄らぎます。
今も児童が通えるような状態ではありませんが、学校は地域の象徴ですし、
見た目がいくらかでもマシになるだけでも、子どもの心にはよいはず。
自衛隊が中心となってガレキを撤去したようですが、
大したものだと、頭が下がる思いです。

こちらも石巻で、以前のブログでは壊れた家がめちゃくちゃに密集していた場所。
じつは大地震から9日ぶりに、おばあさんと孫が奇跡的に救助された付近です。
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こちらも以前と比べると、見違えるような雰囲気に。
ほとんどの家は解体され、更地になっています。
見違えるという以上に、もはや完全に別の土地。
仕方がないこととはいえ、家が解体された住民は無念だったことでしょう。

ホーボージュンさんやトレランの石川弘樹さんたちと、4月に泥かきをした湊中学校。
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割れたガラスの代わりにビニールで覆われ、
入り口は明るい色使いの扉で閉じられるようになっていました。
あのときのドロドロの講堂が、今は清潔感を漂わせていて、うれしい限り。

内部を見ると、破壊されたクルマは撤去され、ヘドロも完全に取り除かれていました。
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僕たちが4月に泥をかいたのは、中央左に入り口が黒く見える、倉庫の部分。
上には原色の壁画が描かれていて、元気が出てきそうなスペースに。
テーブルとイス、鯉のぼりまで設置されていて、
たくさんの人の努力で、ここまで整備されたことがうかがえます。

僕よりも先に、2度目の石巻入りをしていたホーボージュンさんが、
この変わりようを見て、「庄太郎に見せたい!」と話していたらしいのですが、
たしかに感動的なほど、別世界になっていたのです。

連休初頭はボランティアが余るほどだった石巻は、
悲惨さはまだまだ残るもの、思いのほか早めに、少しずつ前進し始めていました。

しかし、この下は、石巻の少し北にある女川町。
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石巻なら、すでに片付けられているようなクルマやガレキは、
交通の邪魔にならない場所に寄せられているだけで、いまだ撤収されていません。

この女川、僕は県内でも好きな町のひとつでした。
だけど、こんな荒涼とした風景を見ると、言葉数が少なくなってしまいます。
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以前もこのブログで、美しかったころの女川の写真をアップしたことがありますが、
改めて画像を探してみたところ、下のような写真も見つかりました。
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もう全然、違う場所です。活気がありながらも、いかにも平和な港だったのに。
なんとか、女川も復興してもらいたいと祈らずにはいられません。

さて、ここから下は東松島町。
市町村合併で「東松島町」という名前になったとはいえ、
宮城県で育った人なら、「矢本」といったほうがわかりやすいかと思います。
甚大な被災で有名になってしまった石巻と、
日本三景のひとつとして昔から著名であった松島とのあいだにあるためか、
あまりテレビや新聞に取り上げられることが少ないのですが、
ここもまた津波の被害がすさまじかった場所なのです。
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こちらはMさんというおばあさんのお宅。これは、一日の作業終了のときの写真です。
僕たちは、家と小屋の前にたまっていたヘドロをスコップで剥がしとり、
土嚢袋に入れて、敷地外に運び出すお手伝いを行いました。
ボランティアセンターで定められた作業時間を使い切っても、
男5人で泥かきし終わったスペースは、わずか畳8~9枚程度。
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たった畳8~9枚のスペースでも、土嚢袋にすると、これだけの量になります。

現地で編成された僕たちのチームには、女性も2名含まれていましたが、
一人暮らしのMさんは、女性陣のお手伝いを非常によろこんでいました。
力仕事は男が得意とはいえ、泥で汚れた食器や家財道具を
水できれいに洗って整理するには、やはり女性に託するほうが安心できるんですね。

さらにこの下は、宮城県の最南端である山元町。
ガレキ撤去の作業中は写真など撮っている余裕がなく、
これまた、すべてが終了して道具を撤収しているときのカットです。
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この日は東京から遅れてやってきた『PEAKS』編集部のマスケンも加わり、
作業用のツナギを着て、黙々と頑張っておりました。

このHさんもひとり暮らしのおばあさん。
海岸から2キロほど離れたHさんのお宅は、敷地の壁が頑丈だったとのことで、
そのために津波で運ばれてきたガレキがせき止められ、
周囲の家以上に膨大なガレキが山となっていました。
地域のほとんどの家は、もう住むことを放棄したようでしたが、
Hさんはなんとか再び、ここで生活するつもりだとおっしゃっていました。
ただ、本当の気持ちを言えば、
「また津波がくるのではないかと、怖くて仕方がないんだけど」とも。

Hさんは、雰囲気といい、しゃべり方といい、
数年前になくなった、僕のばあちゃんに似ていました。

最後に仙台の僕の家の付近。
東京に戻る前に、少しだけ思い出の場所を自転車で走ってみました。
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上の写真は、自転車で15分ほどで行ける「与兵衛沼」。
沼というより、ため池で、昔は周囲の田んぼに水を供給していました。
僕は幼稚園児のときに、ここから流れ出る小川で特大のザリガニを捕まえて、
いまだ夢に出てきそうなほど、大喜びした記憶があります。
写真の左上あたりにある岸辺の白っぽい岩の近くは、
小学生~中学生のときには、フナ釣りのポイントとして何度も通っていたスポット。

この
与兵衛沼の岸の一部は地震で崩れてしまったようで、
水を少し抜いて、被害の詳細な調査を行っているようでした。
ひどい地割れなどが起こって、水が不自然に干上がってしまい、
沼のなかの魚たちが死なないとよいのですが‥‥

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最後に、実家に戻る前に、高台から西のほうを見ると、いつものように泉ヶ岳。
東北の太平洋側の海岸は激変してしまったけれど、
遠くから見る山は以前と変わらず、どっしりとした安定感があります。

だけど、仙台付近では、太白山の登山道が崩壊してしまいました。
1ヵ月程度で梅雨の時期に入りますが、
地震に加えて雨で地盤が緩み、土砂崩れが起きることが心配です。
他の山には大きな被害が出ないことを祈るしかありません。
この泉ヶ岳も大丈夫だといいなあ。

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2011年4月 6日 (水)

石巻の現状

石巻へ行ってきたことのご報告です。
帰宅してから少し時間を空けたことで、気持ちも落ちつきました。

さて、宮城県で2番目に大きい港町・石巻、
やはり被害は尋常ではありませんでした。

下の写真は、この街の近くで生まれ育ったマンガ家・石ノ森章太郎の「萬画館」です。
旧北上川河口の中洲にあり、他の建造物がほとんど流されているなか、
近未来的な建物が奇跡的に残っておりました。
仮面ライダー、ゴレンジャー、ロボコン、サイボーグ007など、
日本のSF系漫画のさきがけにして大家、郷土の誇りなのです。
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この建物のなかに逃げ込んで、津波から生き延びた人もいらっしゃったようです。

石巻専修大学のグラウンドを利用した、ボランティア村。
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僕たちもここにテントを張りました。

倉庫には、全国からの救援物資がいっぱい。
このあともドンドン到着し、整理しきれないほどの量に。
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現在は東京に住んでいるとはいえ、宮城県生まれの僕としては、
全国からの物資が自分にも届けられているような気分になり、ありがたい限りです。
クルマのナンバーを見ていても、鹿児島、愛媛、和歌山、北海道、大分、新潟‥‥。
あらゆるところから支援の人が入っていました。
全国から駆けつけてくれたことに感謝し、ちょっとジーンとしてしまうほど。

ところで、今回いっしょに行ったメンバーのなかには
滋賀県で整体師の仕事をしている人がおり、
彼はこの下の写真の避難所となっている湊小学校で、
整体のボランティアを行いました。
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「きてくれてありがとう」と感謝され、やりがいはとてもあったようです。
ただ方言となまりで話していることがときどきわからなかったようで、
だいたいは理解できる僕が通訳できれば、もっとよかったのですが。

この湊小学校はグラウンドこそ片付いているものの、周囲にはガレキが積み重なり、
校舎の窓から見える裏の墓地はこんなありさま。
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この風景を見ながら避難所生活を行っている人がいると思うと、心が痛みます。
ちなみに、アウトドア的なウンチクを言えば、
この小学校は新田次郎の実話をもとにした小説『アラスカ物語』の主人公、
フランク安田の母校でもあります。生存をかけてイヌイットを引きつれ、
アラスカの荒野に新しい村を作り上げた「ジャパニーズ・モーゼ」ですね。

僕の母方の祖母も、たしかこの街で育っているはず。
学校があるたびに「これがばあちゃんの母校かもしれないな」などと考えてしまいます。
しかし、下の写真の門脇小学校は津波を受けたうえに火災も生じたようで
こんな状態になってしまっていました。
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できるだけ多くの子どもが助かっていますように。

称法寺は本殿以外は原型をとどめていません。
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やっと訪れたという檀家の人が途方に暮れていました。

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壊滅的な被害で見渡す限りガレキの荒野となった南浜町。

僕の親戚の家は石巻といってもかなり内陸にあるのですが、家屋は全壊。
地震があったときにはこの街に来ていたので、
クルマはどこかに流されてしまいました。
だけど、こういう状況をみると、クルマなんて探そうにも探せるわけがありません。

そういえば、宮城県では津波によってクルマが15万台も廃車および行方不明になり、
これは宮城県に登録されている車両台数の10パーセントにあたります。
耕作地も同じく県内の10パーセントが海水の下に沈んだ計算になるそうです。
宮城県だけでこの数字なのですから、他の県も含めれば、いったいどうなることなのか。
これからの復旧には、やはり多大なお金と時間がかかります。

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ショベルカーが撤去作業を始めていますが、手が入っているのはごくわずか。
自衛隊が作業を見守っているのは、遺体発見に備えてのことだと思われます。

周囲には津波で流されたさまざまなものが散乱しています。
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この冊子を持っていた人は、きっと山好きだったのでしょう。
生き延びていて、再び「立山黒部」に行ける日がくることを祈ります。

年配の方が多い街だったのか、レコードもたくさん落ちていました。
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これは中村雅俊のもの。石巻の北にある女川町出身で、母校は県立石巻高校。
郷土の誇りとして、きっと繰り返し、愛聴していたのでしょう。

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津波に押し流されないまでも、水圧がかかった家々は、隙間なく密集しさせられ、
その間にありえない状態でクルマが挟まっています。

南光町という場所には、日本製紙の工場があります。
散乱している白いロールは、雑誌用の上質紙。
日本の雑誌/書籍に使われる紙のかなりの分量は、
この日本製紙・石巻工場を含む東北の被災地にあった工場で作られているんです。
出版業に携わるライターとしては、呆然とならざるを得ない光景としかいえません。
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通りがかった地元のおじさんがいうには、
これらのロールは貨物列車に乗せるため、倉庫に保管されていたもので、
津波によって倉庫が破壊され、弾き出されるように散乱したとのこと。
ただ、工場は大破したものの、「世界でここにしかない」という超高性能マシンが
なんとか生き残ったこともあり、いずれ工場は絶対再開させると
日本製紙の社長さんが断言してくれたのが、うれしかったそうです。
早く復活してもらえることを、出版業界も期待しているはずです。

ホーボージュンさんと僕が加わったのは、湊中学校の講堂の泥掻き。
当初、遺体が出てくるかもという話があり、若干重い決意で現場へ。
ジュンさんは阪神淡路大震災のときに、現地で数ヶ月も活動した経験があり、
いつのまにかリーダーとして現場を仕切っていました。
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普段はバカばっかり言っているどうしようもない人ですが、
いざというとき、こういう行動が取れるから、
周囲の人に尊敬され、頼られ、愛されているのです。
現場でのくだらない下ネタのギャグはみんなにスルーされていましたが、
ほんと、ジュンさんのリーダーシップには感心しました。
照れくさいので、本人には面と向かって伝えられませんが、
やっぱりジュンさんはスゴいよ。

僕たちの主だった泥掻きの場所は、講堂の倉庫で、
数十センチの泥が床を覆い、天井まで大量のゴミが付着していました。
泥の中には、剣道の防具や柔道着が埋もれ、
さらにサバなどの魚が丸ごといっしょに折り重なっている状況。
防具のなかにサバが入っている不思議な光景には一瞬笑っちゃうのですが、
その防具を使っていた生徒のことや、
水産加工に使うはずだったサバを獲ってきた漁師さんのことを考えると、
次の瞬間には寂しい気持ちになってしまいます。

ともあれ掃除を続けていくと、泥だらけの講堂が、まるで新築のようにピカピカに。
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右端にいるのは、トレイルランニング界のスーパースター、石川弘樹さん。
ひとりでレンタカーを運転して石巻に入ったそうで、
物資を寄贈したあと、泥掻きにも参加してくれました。
僕の故郷のために、みなさん、ありがとうございます。

僕たちの作業中も、この講堂では炊き出しが行われていました。
この次の日からは、泥掻きをした倉庫が食料庫になるはず。
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石巻の市街地には、種類を選ばなければ食べ物自体はあるのですが、
しかし「温かい」食べ物が不足しています。

別の炊き出しの場所では、連日同じ子どもたちにからまれました。
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学校は再開せず、親も生活を立て直すのに忙しく、
遊んでくれる人を探していたのでしょう。
地震の影響が心に暗いものを落とさず、元気に育ってくれるといいのだけど。

しかし、ゴミを投げてくるのは反則だぞ。
僕のあだ名が「コンブ」にされたのもよくわかりません。
まあ、かわいかったので許しましょう。

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2011年3月29日 (火)

今度は石巻へ

あと数時間で出発。
本当は仮眠しておくべきなのに、どうも眠くならず、ブログをアップしております。

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これから向かうのは、宮城県の石巻市。
旧北上川の河口にある県内では仙台に次ぐ大きな街で、
今回の地震による津波の被害も甚だしかった場所です。
僕の父方の先祖は、その少し内陸部で、
昔から米を作り続けていたという、僕にも関係が深い土地でもあります。

出発が決まってから丸1日もないなか、
なんとかガソリンの携行缶を満タンにし、食料と水を用意し‥‥。
現地の子供用にチョコレート類などのお菓子、
おじいちゃん・おばあちゃん用に柿の種、
それとストックが切れて不自由しているというタバコなども。
クルマにそれほど荷物が入らないので、あまりかさばらなく、
大量に買っても他の人にあまり迷惑にならず、
かつ現地で喜ばれそうなものをと考えました。
そこに寝袋やマット、軍手、長靴、スコップも加えて。

今回はライターの先輩のホーボージュンさんたちといっしょに向かうのですが、
諸事情あって2泊3日という短期集中型。
ジュンさんと以前から関係があるボランティア団体などがすでに現地で動いており、
僕らはクルマ1台に荷物を積んで、まずはその拠点に向かいます。

時間がないので、それほど具体的な手伝いはできそうもありません。
だけど、限られた時間を有効に使って
今後ドンドン入るはずのボランティアが効率よく動くための方法や、
これから必要とされるモノや情報がどういうものなのか、
しっかり確認してくるつもりです。

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2011年3月22日 (火)

仙台での3日間-2(市街地)

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僕が育った街からは、泉ヶ岳という山が見えます。
雪がある季節は、このくらい暗くなってくるとスキー場の照明でかなり明るいのですが、
やはり今は人の気配が感じられません。
だけど、地震があったって、凛々しい姿は変わらないのです。
できるだけ早く、みんながこの山を心から楽しめるときが再びくることを祈ってます。

前日に書いたように、2日目は津波の被害にあった
僕の子どものころからのなじみの場所を確認しに行きました。
これによって、変わってしまったものはもう元には戻らない、
こうなったら、あとは未来を見るしかないと、
自分の気持ちに踏ん切りをつけられたように思います。

その他の日は基本的に実家におり、
あとは少しだけ街のなかの様子を見に行く程度でした。
じつは誤解をもたれていないかと心配しているのですが、
僕は今回、けっしてテレビなどで放映されているような
災害救援活動のために仙台入りしたわけではなく、
あくまでも被災地に家族と親戚をもつ人間として、
まずは実家で必要としている物資を運び、親に顔を見せて安心してもらい、
そして親戚や友人などの安否を確認するのが目的でした。
とくべつセンセーショナルな写真や話は期待しないでください。

さて、ここから下の数カットは、僕の実家がある南光台という
仙台市内のなかではけっこう古い住宅地の様子です。
地震から1週間以上経っていたこともあり、
それなりに普段の生活が戻りつつあります。

この部分、自宅周囲の様子を知りたがっている
小中学校の仲間に向けたご報告の意味合いがあるので、
あまり興味がない人は、飛ばしてもらってもかまいません。
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屋根の破損部分を直している家。
南光台の被害は比較的軽微で、このような家はそれほどありませんが、
家の壁やブロック塀が崩れている家はかなり多かったです。

母校の南光台東中学校の体育館を覗くと、仮設トイレを作る準備をしていました。
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中学生のときはバスケット部だったので、
いつもこの体育館で運動していましたが、仮設トイレを置く日がくるとは。
だけど、避難所には使われていないということは、
周囲の家々にあまりダメージがなかったということで、少しはほっとします。

遠くの街からもプラモデルを買いにくる少年が多いことで有名な NODA-YA。
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僕が自動車のプラモデルを買いに行っていた店舗を
新しく建て直しているはずなのに、無残なありさまになっていました。
苦しい状況でも、人間には絶対に息抜きが必要。
近隣の模型好きのために、早く復活できるといいのですが。

この写真を撮った前々日に、多くの家では水道がなんとか復旧し、
いまやそれほど多くの人が並んでいるわけではありません。
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「黄桜」と書かれている車両は、京都ナンバー。
遠いところからありがとうございます。
並んでいる人は、「酒をもらってるみたいだね」と話していました。

さすが東北だけあって、親戚に農家がいる人などは、
精米前の米を持っており、籾殻をこんなコイン精米所で落とします。
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だけど、こんな米どころだというのに、店頭で米は品薄です。

こちらは隣の鶴ヶ谷という住宅地の公園。
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地震で使えなくなった家電や家具や山のように積まれています。
全体の量は、この数倍どころではなく、10倍以上はあるでしょう。
必要なものを買いなおすだけでも、相当な出費が予想され、気の毒になります。
こういったゴミといい、海岸のガレキといい、
これからの処分方法も難しそうです。

というのが、僕の実家から半径1キロ程度の様子。
仙台市の住宅地は、おそらくどこもこの程度で、
甚大な被害はなんとか避けられたようです。
それでも家が全壊したりして、亡くなった方は何人もいらっしゃいます。

ところで、市内を歩いていると、目に付くのが、このような看板。
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仙台市は以前から大地震が発生することを見越していて、
さまざまな対策を重ねている最中でした。
これらの看板の工期を見ればわかるように、
橋も下水管もまだ工事中にもかかわらず、
あの巨大地震でも大きな問題は発生せず、
自分の故郷ながら、大したものだと思います。
だけど、今後は、津波への対策も考えなければならないでしょう。

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繁華街にあるモンベルの店舗。
ここにアウトドア義援隊の本部があるはずでしたが、すでに山形に移動した後でした。
いずれにせよ、東北のために活動していただき、頭が下がります。

青葉城(仙台城)址の壁は崩れていました。
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青葉城「址」というだけあって、仙台には城は現存せず、
あるのは「址」、つまり城跡のみです。
城は戦争中にアメリカ軍の仙台空襲で焼かれました。
それがこの地震では、仙台湾にアメリカ軍の空母が到着し、
「operation TOMODACHI」なんていう作戦名で救助活動を行ってくれています。
非難も浴びがちなアメリカ軍ですが、敵よりも友達のほうがよいに決まっています。
アメリカにかぎらず、誰とでも、どんな国とでも。
戦争は永遠に行わず、助け合いだけでつきあえる世界になってほしいものです。

桜の名所である西公園から、広瀬川を挟み、
対岸には僕が通っていた仙台二高の講堂と体育館が最上段に。
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授業をさぼったときは、この河原で石を投げたりして、時間をつぶしました。
仙台市民が愛する穏やかな清流なのですが、
この川が合流する名取川の河口を津波が襲い、たくさんの命が失われました。

高校の正門。何十年も前から、この時期になると
必ず登場する「定期戦」の看板が、今年も置かれていました。
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「杜の都の早慶戦」などといって
大昔から仙台の名物になっている一戦で、
前日には両校の生徒が集団になって繁華街を練り歩きます。
私服の高校なのに、このときだけはガクランを着て。

僕はこの看板の「日付け」が大地震のなか、
どのようになっているか、非常に気になっていました。
定期戦の当日まで、看板の数字を1日ずつ減らしていくのですが‥‥
見たところ、「あと54日」。
どうも今年は5月11日に定期戦が行われるようなので、ぴったりの勘定です。

震災に負けず、今年も行おうという強い意思が感じられます。
とはいえ、津波に巻き込まれた地域の生徒もこの学校には通っているはずで、
もしかしたら亡くなっている可能性すらあり、結局、中止になるのかもしれません。
右のほうの小さな張り紙には「登校困難の生徒は、自宅待機」とも書いてあります。
だけど休校のなか、それでも生徒が誰か毎日わざわざ学校に来て
この数字を減らしていっているのだと思うと、卒業生としては胸が熱くなるんです。
早く地震から立ち直って、いつもの生活に戻ってほしいと思います。

さて、東京に戻るバスターミナル。
新宿行きのバスは完全に満席です。
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今回は奇跡的にとれたチケットで仙台に往復でき、
そのチケットによって滞在日数も決まりました。
もう少し残ることができたら、なにかできたかもしれません。
やはり現在の問題は、交通手段なのです。
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これは帰りのバスのなかから見たガソリンスタンド。
写真には撮ることができませんでしたが、最後尾がどこにあるのかわからないほど、
クルマは長蛇の列になっており、ガソリン不足はまったく解消されていません。
東北でいちばんの大都市の仙台でもこの有様なのですから、
食料や医薬品などの援助品を運ぶトラックも
被災地に入ることはなんとかできたとしても、
戻るだけのガソリンを得られず、簡単には東北まで往復することができません。
援助活動を行おうとしている有志の方々も同様。
なにしろ、仙台の僕の実家でも、わずか5分程度のクルマの使用も
控えるようにしているほど、ガソリンがないのですから。
もともと被災状況が苛烈ではなく、食料なども入り始めた仙台から、
ひどく苦しんでいる海沿いの小さな町まで助けに行くこともできません。
警察のクルマですら行動が限られつつあるのが、現在の東北の太平洋側なのです。

僕が知っているだけでも、何人もの人が被災地に入り、
ボランティアで活動しています。
しかし、しっかり活躍している人だけとはいえず、
ただたんに現地の人たちの食料やガソリンを減らし、
避難したい人の代わりにクルマの座席を占め、足手まといとはいわないまでも、
もうちょっと考えてから動いてほしいと思われる人もいないわけではありません。
阪神淡路大震災のときとは違い、被災地があまりに広範囲で、
しかもアプローチへの燃料や距離などの問題がいくつもあるのが、
今回の大地震の特徴です。
なにも現地での直接的な支援でなくてもよいと思うのです。
遠くからの間接的な支援でかまわないので、
長期的な視野で援助を続けることが大切なのではないでしょうか。

今回、自分の目で故郷の様子を見て感じたことは、
早いうちに簡潔にまとめてみるつもりです。

ともあれ、僕は東京に戻ってきました。
明日からは自分の仕事を再開しつつ、この地震について引き続き考え、
こちらでできることを行おうと思っています。

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2011年3月21日 (月)

仙台での3日間-1(海辺付近)

往復の日程を除くと、仙台にいるのは3日間。
実家で手伝うことはもはやそれほどなかったので、できるだけ外へ出てみました。
自分が育った場所の現状を、目に焼き付けておかねばならないような気がして。

これを書いている今は、現状確認がすんで、気持ちの整理がつき、
感情的にはなりたくない心境。
あまりひどい写真は使わず、文章も落ちつき気味でいくことにします。

では、時系列は狂いますが、はじめに2日目から。
この日は、意を決して、津波に襲われた場所へ向かいました。

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家で借りた自転車に乗り、子供のころ海まで釣りに行くときの道を使って、
七北田川沿いに下っていきます。
この川は、僕の「3大河川」のひとつで、コイ、ウグイ、クチボソ、
初めて釣ったのは、すべてこの川。初のモクズガニを捕ったのもここでした。
ちなみに、あとの2つの「3大河川」は、父の育った北上川、
高校のそばを流れていた広瀬川。広瀬川の下流は名取川であり、
この3つの川の河口は、すべて津波でやられてしまいました。
だけど、これらは、僕がこれまでにカヤックで下った四万十川や釧路川、
カナダのユーコン川などの名川にも負けない、僕には大事な川なんです。

河口から8キロほど上流の岩切付近。
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ここまで津波が押し寄せてきた痕跡があり、川の真ん中に家が浮いています。
河口から流されてきたとは思えないほど上流なので、
おそらく川べりにあった建物が流出したのでしょう。

さらに進んでいくと、七北田側右岸の蒲生地区。
ここから数百人の遺体が発見されていという荒浜へ向かって行きました。
このあたりは、僕のいろいろな思い出がある場所です。
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水田があったはずの場所が、見渡す限り、すべて茶色い水と土砂で覆われています。

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遺体を捜索している消防署のみなさん。
長い棒を水中差し込み、深い場所を避けながら丹念に見て回っていました。

家を出て1時間半、やっと海が見える場所に。
だけど、道が崩れていて、これ以上は近づけません。
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このあたりはサーフィンも盛んでただでさえ波が大きい場所だったという
記憶があるのですが、まさか10m近い津波が襲ってくるとは。
この写真の目の前の足元には、泥だらけのサーフボードが転がっていたのですが、
あまりにも生々しくて写真を撮る気が起きませんでした。

頭上をひっきりなしに通り過ぎるヘリコプター。
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このすぐ近くには仙台港、さらに先には多賀城の自衛隊駐屯地があり、
そこへ向かっているようでした。どちらも津波の被害にあった場所ですが、
復興と救助のために、なんとか再び機能させ始めている様子です。

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墓地の上に、何台ものクルマが流されていました。

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建物は流されていないものの、内部は完全に破壊されたセブンイレブン。
少年たちが、ガレキを掘り起こし、残されたものを物色していました。

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流されているもののなかでは、なぜかぬいぐるみやサッカーボールが目立ちます。

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細いものはもちろん、一抱えほどもある松の木が海から陸に向けて横倒し。
今回の地震による津波により、青森から千葉まで、
このような木が何十万本も倒されたのでしょう。
防砂、防風、防潮を兼ねて、数百年かけて育ててきたものが。

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海はこのすぐ先。だけど、貞山堀にかかるコンクリートの橋は分断され、
先には進めません。聞こえるのは、波の音だけ。
その音は、いつもとあまり変わらない気がします。
このあたりで、よくハゼ釣りをした気がするのですが、
風景があまりに変わりすぎていて、よくわかりません。

このあたりで、仙台出身の何人かの友人と電話で話しました。
誰もが「オレの代わりに、ちゃんと見ておいてくれよ」と。

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僕の今の心境だと、ここでお見せできるのは、これくらいが限度。
もっとめちゃくちゃになったクルマや家が、そこらじゅうに広がっています。
おそらく、その影にはまだ遺体が眠っているのでしょう。
道路に段差がある場所では、その衝撃で自転車のベルが勝手に鳴り、
「チーン」という音が、まるで仏壇の御鈴のようで気が滅入ります。

こうしているうちに、僕は自転車のタイヤをパンクさせました。
ガレキばかりの場所なので、ものすごく注意していたのに。
ガソリンがないときの貴重な足を傷めてしまい、
実家の家族に申し訳ない気持ちでいっぱいになります。
仕方なく、トボトボと10数キロ歩いて、家に帰ることにしました。
このパンクによって、すぐ近くにある仙台港、塩釜、多賀城には行けませんでした。
その付近に住んでいた友人の家だけでも確認したかったのですが。

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津波の影響がなかった場所まで戻り、幹線道路に沿って歩いていきます。

国道沿いの店は、ほとんど休業中。
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しかし、ときどき行列が見られました。例えば、この「餃子の王将」では、
お店の方が、「無料でふるまっています、いかがですか~」と、
自転車をひいて歩いていた僕にも声をかけてくれました。
被災された方に申し訳なくてご遠慮しましたが、
こういう光景はいたるところで見られて、なんだかうれしくなりました。
日本では困ったときにこそ、人間のよい部分が発揮されるんですね。

明日は東京に戻ります。
残りは、それから。

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2011年3月19日 (土)

仙台に到着

たくさんのコメント、ありがとうございます。
ひとつひとつの言葉に心がこもっていて、とてもうれしくなります。
ひとつひとつ返信したいところですが、
この地震の件に関しては、まとめてお礼を申し上げますね。

現在、僕は仙台の実家です。

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昨日の午前、新宿発の長距離バスに乗り、仙台へ向かいました。
目的は、食料などの物資を運び入れることと、なによりも親の顔を見ることです。

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いつもは山に行くときの相棒が、今回も出動。
まさか被災した出身地に入るときに使うとは、思ってもみませんでした。
もっとデカいバックパックに、もっとたくさんのモノを入れようか迷いましたが、
他の人たちの荷物も物資満載で大きいとバスに乗りきらないのではないかと考え、
これくらいなら迷惑にならない程度の大きさなのではないかと判断。
その代わり、中身のほとんどが食料で、デカいほうの重さがおそらく40キロ、
小さいほうが10キロくらいになっています。容量は、合わせて100リットル。
ギチギチにパッキングしているので
山に行くときと見た目はあまり変わらないけど、やはり食料は重いですね。
「今回は、いつも以上に頼みよ」という気持ちで、背負いました。

しかし、バスに意外と大きな荷物を運び込む人は少なく、
もっとデカいバックパックでも大丈夫そうでした。
とはいえ、これ以上の重さを運ぶのは、人力ではさすがに大変、。
まわりでは、「親戚の○○○とまだ連絡がとれない」とか
「○○○さんのところは2人亡くなった」などという話をしている人もおりました。
おそらく海岸付近に住んでいた人なのでしょう。

出発前のバスのなか、車掌さんが運転手さんにむかって何気なく話した、
「クルマ動かすときは、一言いってけろ」に、ちょっとしんみり。
なぜかといえば、「けろ」っていうのは「くれ」という意味の仙台弁。
周りの人からもさまざまな方言が聞こえ、
新宿にいるはずなのに、バスのなかは仙台でした。

今回乗ったJRバスは緊急車両扱いとのことで、
現在は一般車両は通行止めになっている東北自動車道を使うことができました。
アスファルトに段差や波打ちがあるので、最高速度は50キロ程度。
クルマが少ないので、非常に静かでした。
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普通車もいくらか走っていましたが、やはり目立つのが物資を輸送するトラック、
タンクローリー、真っ赤な消防系の車両、そしてカーキ色の自衛隊。
近くに座っていたおばさんは、自衛隊や消防の車両が走っていると、
小声で「頑張ってね」と何度も繰り返していました。

SAやPAもこぢんまりと開放されておりました。
しかし、駐車場はこのように閑散としたもの。
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途中では飲み物や食べ物を買えないかもと、乗車前に説明を受けていましたが、
最低限のものは売っています。
道路の状態はやはり福島あたりから悪くなり、補修中の箇所ばかり。
工事を担当している作業員のみなさんといい、
物資の輸送や災害救助に向かっている人といい、
この高速道路で見かける人たちには、頭が下がる思いです。

ところで、感心したのは、車内での携帯電話の扱い。
緊急時ということで、仙台に近づくと車内での携帯電話の使用がOKとなり、
多くの人が身内に電話をかけて、到着時間などを知らせることができました。

7時間半ほどで、仙台に到着。
下は長距離バスが発着する仙台駅東口、
繁華街とは反対側にあたる、いわゆる駅裏です。
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仙台中心部は電気の復旧が早かったので、
一見、いつもとあまり変わらないように見えます。
しかし、実際は開いている店はほとんどなく、オフィスの照明も限定的。
やはりよく考えると、平時の3割程度の明るさでしょう。
できるだけ電気を使わないように、ひっそりとしています。
ガソリンを使うクルマはやはりあまり走っておらず、
その代わりにLPガスで走るタクシーだけは、いつも以上に目立ちました。

荷物の重さが重さなので、貴重なガソリンを使って、
弟に迎えに来てもらい、実家へ。
僕の顔を見ると、母は涙ぐんでおりました。
そして、恥ずかしながら、何度かハグ。
父はとにかく乳製品を欲していたようで、
僕が持っていったスキムミルクを水にとかし、
さらにそこにコンデンスミルクを溶かしこんで飲みほしていました。
普通の牛乳を持っていくことができれば、もっとよかったんだけど。

実家は片付けもおわり、なんとか水も復旧したようで、
空気交じりでへんな破裂音を出しながらも、
飲み水は蛇口から流れるようになっていました。
電気も問題ないので、昨年からオール電化の家になっていた実家は、
とりあえずはいつもの姿に。
テレビもインターネットもOKで、ちょっと拍子抜けするほど。

ただ、話を聞いていると、無事だとは聞いていた親戚は
実際はかなり危なかったようであり、
昨年、父とともに野田知祐さんを案内した旧北上川の農家は全壊。
かつて馬を飼っていた小屋に、今は寝泊まりしているという状況に。
しかも現在の主人は、ちょうど所用で石巻という街に出かけていたときに
地震に遭遇し、軽トラックを捨て、高台に走って避難したところに波が押し寄せ、
目の前でクルマは流されてしまったそうです。
この農家は、もしかしたら父が継ぐ可能性があったらしいほど
父方の直系のルーツである親戚なんです。
僕の名前の庄太郎の「庄」の字は、この家系の長男に付けられる漢字で、
祖父、もしくは父がこの農家を継いでいたら、
僕がそこで農業をしていた可能性もあった、などと想像することもあります。
実際は農業を嫌がった祖父の代に仙台に出てしまっているので
今は祖父の弟の血筋が継いでいるのですが。
ともあれ、高橋家先祖代々の墓を守っていてもらっている家でもあり、
家は壊れても、なんとか生き延びることができて、本当によかった。

さて、今回実家に帰って意外だったのは、
僕が帰省するたびになぜか毎回吠えたててくる
パグ犬のモモが、珍しく甘えて寄ってきたこと。
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今回、病弱なこいつのために、仙台では入手困難になった
薬剤入りの特殊な缶詰を、東京のペット病院で分けてもらってきました。
それを運んできた僕の努力をわかってくれたのかもしれません。

というのが、昨日のこと。
今日のことも、このまま書いてしまおうかと思いましたが、
若干疲れている気がするので、あとにしようと思います。

あ、また余震だ。

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2011年3月17日 (木)

故郷・仙台へ行ってきます

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はじめに。
たくさんの温かいコメントをありがとうございます。
かなり長いこと憂鬱な時間を過ごしていましたが、かなり回復しました。
直接被災した人たちのことを考えれば、
東京で落ち込んでいるのは甘すぎますからね。

ここ数日、どうにかして仙台に行けないかと考えていましたが、
今日から細々と復活した長距離バスのチケットがギリギリ入手でき、
明日のうちには仙台に入れることになりました。
もっとも助けを必要としているのは津波が襲った海岸地帯ではありますが、
僕が今、はじめにやらねばいけないのは、
すべての人間関係の基本となる、自分の家族のこと。
いろいろなものが不足しているので、
東京で入手できるものをバックパックに突っ込んで、バスに乗ります。
足りなくなっている食料を持っていくのが主目的とはいえ、
息子が顔を見せるだけで安心してくれるでしょう。

仙台に運んでいくものを探すために、いろいろな場所をまわりましたが、
誰もが日持ちする食品を買いだめしているので、
スーパーにはレトルト食品や缶詰、インスタントラーメンなどがほとんどない状況。
山に行くときのために用意していたものや残り物などをかき集めたりして、
なんとかそこそこの数にしましたが
新しいものはお店をまわっても、あまり見つかりませんでした。
野菜や生肉はけっこうふんだんに残っているのに。
水不足の当地では、水を使わないでそのまま食べられる
レトルト食品や缶詰などを持ってきてほしいといわれているのですが、
おいしそうな食材を持っていっても、調理に水が必要なものは食べにくいのです。
野菜を洗う水もなく、今回持っていくものは皮を剥くだけでよいものや
あらかじめこっちできれいに洗って持っていくことになります。

食料よりも不足しているのはガソリンで、
現地ではほとんど入手できない状況です。
僕の母は足が不自由なのですが、病院にも行けなくなっています。
痛くても我慢するしかない、という状況です。
それでも、仙台市の市街地にいる僕の母はまだましで、
海岸のほうでは食料の配送や緊急車両すらまともに動けなくなっており、
ガソリン不足はものすごく深刻です。
福島原発の放射能問題が大きくなっている現在、
クルマのなかにガソリンが入っていないことは、
いざというときにどこかへ逃げることもできないという、
大きな心理的ストレスにもなっています。
本当は、食料よりも、ガソリンを持っていってあげたいくらいです。

ちょっと話がそれますが、昨日の夜、僕と中・高・大学までいっしょの
親友がうちにやってきました。彼は東京の某テレビ局に勤めているのですが、
この緊急時に対応すべく、地震発生から昨日までずっと会社で働いていたとのこと。
それももちろん大変なのですが、なんでも現在の地震関係の特番には
企業のCMが入らないうえに、一方では番組を作る莫大なお金がかかり、
毎日ものすごい赤字(普通の人の生涯賃金の数倍)になっているそうです。
さらに系列の地方放送局(仙台の)が電力不足に陥ると
現地からの放送自体が途切れてしまうために、
毎日、自家発電用の重油と放送機材を積み込んだクルマを
東京から仙台に走らせ、なんとか放送を続けられるようにしているようです。
現地の住民にとって、こういうときの地元テレビ局からの情報は本当に大切なんです。
今回の報道で、とやかくいわれることも多いテレビ局ですが、
赤字覚悟でものすごい努力をしていることも知っておいてあげたいところです。
ガソリン以外に、現地ではこんなエネルギーの問題もあるんです。
ちなみに、その仙台のテレビ局で重油を受け取っている担当も
とても仲のよい高校の同級生で、
今回の報道では僕の友達たちがかなり頑張っております。
大変だろうけど、みんなのためになんとか頑張ってもらわないと。

話を戻すと、そもそも、現地の食料とガソリンの不足は、
地元の製油所や商店が破壊されたうえに、
東京方面から物資を運ぶために東北へ向かっているトラックやタンクローリーが
十分なガソリンを得られず、スムーズに動いていないことが大きな原因です。
長距離バスですら、少しは復活したのだから、
ガソリンさえあれば食料もガソリンも持っていけるんですから。
僕の東京の自宅近くのガソリンスタンドは休業中か、
開けてあるときは最後尾が見えないくらいの大行列になっています。
だけど、並んでいるクルマのなかには、
今後のことを考えて、とりあえず給油しておこうという人も多いようです。
だけど、その「とりあえず」の給油のためにガソリンが不足し、
緊急を要する東北への物資輸送が困難になっている状況が発生しています。
「とりあえず」と「緊急」なら、どちらが重要なのでしょう?
食料の買いだめにしても同じことで、各地からの高速道路が機能している
東京ならば数日で日本中から食べ物が輸送されてくるのは明白。
きっとあと数日で、東京にはまた食料が以前のように戻るような気がしているので、
昨日、今日の2日以内に仙台へ持っていく食料を
探さねばならなかった僕には、ちょっと残念でした。

ところで、アウトドア界では「モンベル」や「スノーピーク」が
テントや寝袋を現地に送る活動を行っています。
3月の東北はまだまだものすごく寒く、
とくに寝袋はこれから数ヶ月以上、役立つと思いますので、
使わないものを持っている人は、メーカー経由で現地に送ってあげてください。
(現在、物資が殺到しすぎて活動停止になっている会社もあるようですが)

ただ、僕が考えるに、寝袋だけでは十分じゃありません。
寒い山で寝たことがある人はおわかりかと思いますが、
寝袋の下に断熱性の高い「マット」がないと、あまり意味がないのです。
底冷えする東北で、避難所の冷たい床の上に寝袋だけを広げても、
ダンボール程度では背中が冷たくてぜんぜん眠れないはず。
寝袋はマットも組み合わせて送れるとベターであるはずです。

現在、仙台の僕の実家でも積雪は20センチ程度とのこと。
こんなタイミングで「今年いちばん」らしいです。
建て直したばかりだった僕の実家は断熱性も高いようなので、
寒さもなんとかしのげるでしょうが、避難所にいる方々や
捜索活動をしている人たちは、本当につらい思いをしているでしょう。
灯油も不足していて、石油ストーブすら使えないようです。
ガソリン、重油、灯油、現在の人間の生活は、本当に化石燃料次第ですね。
ボランティアで入った人たちも、東北の寒さがこたえているようです。

ところで、そのボランティア活動なのですが、
今のタイミングでは個人で不用意に参加するのはやめたほうがよいと思われます。
参加するなら、あらかじめどこかの「組織」に登録してから。
以前の阪神淡路大震災のときと同じで、
自分の食料や移動手段すら確保せずに現地入りすることは、
ただでさえ少ない現地の食料やエネルギーを減らすことになり、
いまだ大きな余震の可能性がある東北では足手まといになるばかりです。
もっと落ち着いてからのほうが、現実的です。

僕はその点では非常に現実主義で、
現地でどれくらい必要とされているか判断しにくい「モノ」や
たんなる人数よりも現場ではエキスパートの力を欲している「人手」より、
一般的には「お金」の寄付がベストだと思います。

すでにさまざまな募金活動が行われていますが、
僕は以前からお付き合いのある「ユニセフ」へ寄付をしました。
2007~2009年の間、僕はアフリカのマリという国で
ボルヴィックのチャリティで、ユニセフが砂漠に井戸を作る活動を
3年連続で取材したことがあるのですが、非常に信頼できる活動をしていて
さすが歴史ある世界的な組織だと確信しています。
みなさんも、自分が信用できる団体に寄付をするとよいのではないでしょうか?

テレビや新聞で同じような話を聞いているとは思いますが、
僕は今、こんなことを感じ、考えています。
いくらでももっと書けるけれど、ちょっと長くなりすぎたので、このあたりで。
ともあれ、時間は限られていますが
明日から仙台へ行き、両親、弟、ペットの犬に会い、
故郷の現在の姿を自分の目で確認してきたいと思っています。

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2011年3月13日 (日)

僕の出身地の大地震

ご存知のように、僕の出身地の宮城県沖に震源地がある大地震が発生しました。
あの地域は以前から大地震が想定されていた場所なので、
地震が起きたこと自体には驚きません。
だけど、まさかあの規模で起こるとは。
あんなにたくさんの人が死んでしまうなんて。

かつて、伊達政宗は外洋からの荒波から船を守り、
米などの物資を安全に運べるようにと、
現在の宮城県にどちらも河口がある
北上川から阿武隈川まで貞山堀という日本最長の運河を掘りました。
さらに今は長々と防風林や防潮堤も作られていたのに、
今回のような未曾有の津波にはひとたまりもなく、ぜんぶ飲み込まれてしまいました。
僕が子どものころは自転車で、大人になってからは自動車で走った海岸の道は
たくさんの命とともに、まったくなくなってしまいました。

仕事先から16キロ歩いて自宅まで帰った当日は、
妙な興奮からか現実味がなかったのですが、
テレビなどで情報を得るうちに、当日よりも昨日、昨日よりも今日、
僕の心理的なダメージも大きくなっていっています。
もうなにもやる気がしません。
楽しい記憶が残っている場所が、ぜんぶ破滅してしまって。
たくさんの友人・知人から連絡をもらいましたが、返信する気力もありませんでした。

メールのやりとりで、僕の仙台の家族の無事は確認していたものの、
先ほどやっと弟と直接電話で話すことができて、少しだけ気分がましになり、
気持ちの整理をするために、ブログをアップしてみています。

僕の実家は昨年建て直したばかりだったので、とくに大きな問題はなく、
それ以前に、実家があるあたりは地盤がよかったからか、
周囲にもあまり大きな被害はなかったようです。
近い親戚は無事ですが、遠い親戚は津波が押し寄せた海沿いにも
住んでいたはずで、もうどうなっているかわかりません。友人、知人も。
僕が幼いころ初めて泳いだ荒浜の海水浴場近くには
2~300人の溺死体が打ち上げられているそうですし、
よく釣りをしに行っていた名取川河口の閖上も津波でやられて、見る影もありません。
あそこにはうまい寿司屋も多かったのだけど、
もう誰も食いにいくことができないのです。

いまだに1万人近くの人の安否がわからない南三陸町の志津川にも
一家でよく出かけていて、お正月を当地の旅館で向かえる年もよくありました。
気仙沼では海に落ちておぼれかけたこともあり、
松島ではとれたてのカキを焼いて食い、食いすぎで腹を壊したり、
お正月用のハゼ(仙台の雑煮のダシはハゼでとるんです)を
船に乗って釣りに行ったり、お盆の花火大会を見に行ったり。
仙台空港が開港したときは、その第一便にのって香港に旅行したこともありました。
そんな場所があとかたなく壊滅してしまいました。

2002年に僕が会社を辞めて旅に出たとき、
スーパーカブでゆったりと走り、最初に向かったのは北海道。
茨城、福島、地元の宮城の海岸を経由して、岩手、青森と北上していきました。
あまり写真は撮っていなかったのだけど、さきほどそのときの写真を見ていたら、
そのころの平和そうな様子に、ますます気分が重くなりました。
でも、被災した場所がどういう場所だったのか、知ってほしいと思います。

1
福島県の相馬。右が海で、左が松川浦。
2
あのときの海は、こんなに静かできれいだったのに。

3
原発のある町としてしられる宮城県の女川。 4 9
この海では、おいしい魚がたくさん獲れました。

170
津波とともに、ものすごい火事が起こった宮城県最北部・気仙沼。
5
あのときは夏の祭りを行っていて、みんな楽しそうでした。

三陸の海岸は、ほんとうにきれいなんですよ。7
だけど、こんな切り立った地形のなかのわずかな入り江に作った街は、
津波に対してはひとたまりもないんです。

このときの旅のあいだも、さまざまな町のおじさん、おばさんと、
「今年の高校野球、宮城県はどうだろうね」なんて話していたのに。

ここ数日のうちに、雪山取材や座談会などの仕事を予定していましたが、
家族の無事を知った時点では、ちょっと安心して
「やれるかも」と思ったのに、
今になると、やっぱりとてもできるような気分ではなく、
すべて中止にしてもらってよかったと思っています。
だけど、原稿の締め切りだけはどうにもならず、
なんとか書かねばならないのが辛いところです。
被災した人たちに比べれば、取るに足らない、くだらない辛さ。
しかし、こう重い気持ちで、どうすればいいのか。

すでに知人がバイクで被災地に入ったのですが、
ガソリンすら補給できなくて、身動きもままならぬようです。
僕もなにかしたいような気もするけど、
あまりに身近なことすぎて、今はなにがなんだがよくわかりません。

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